第二次世界大戦 ベトナム 日本軍と戦った日本兵 フランス軍と戦ったフランス兵

場面は第二次世界大戦ヨーロッパのある戦場

アメリカ軍と激戦後、生き残った12名のフランス兵部隊が投降した。

やってきた自由フランス軍の将軍が彼らを軽蔑して言った。

「フランス人なのにドイツ軍の服を着て恥ずかしくないのか」

その若いフランス人少尉が言い返した。

「あなたもアメリカ軍の服を着ているじゃないですか」

処刑場に連行する自由フランス軍の兵士が「どんな気持ちか」と尋ねた。

彼らは「フランスのために戦った」と答えた。

銃殺のとき、目隠しを拒否し、ラ・マルセーエイズを歌い、フランス万歳と叫んだ

 

第二次大戦で、日本に宣戦布告した国は60以上。

なんと、フランスは2回も日本に宣戦布告している。

それは、フランスが2つあったからだ。

 

日本に宣戦布告したフランスはドイツに敗れ、休戦条約を結び、枢軸国側になった。

その後約4年間枢軸国として連合国と戦った、これはあまり映画にもならない。

レジスタンスが本格的にドイツ軍と戦闘したのは後半の短い間だったが映画は多い。

最後に米軍のパリ占領のタイミングで、戻ってきたのがドゴールの自由フランス軍だ。

 

f:id:muraseseiji:20200812013914p:plain

 

f:id:muraseseiji:20200812014150p:plain

f:id:muraseseiji:20200812014335p:plain

 

場面は第二次世界大戦中のベトナム

枢軸国どうし、日本軍とフランス軍は友軍で仲良く大戦ほぼ全期間をすごした。

他の悲惨な戦場もどこ吹く風、ほぼ戦火もなく日本軍兵士には天国のように思えた。

サイゴンでは、ホテルのレストランで食事をし、飲み、映画や娯楽を楽しんだ。

日章旗と三色旗、君が代とラ・マルセーエイズが約4年間も同居していたのだ。

 

場面はある晩のパーティー

日本軍からフランス軍にパーティーの招待があった。

多くのフランス軍将校が集まって宴は華やかにはじまろうとしていた。

突然踏み込んできた日本軍憲兵隊は彼らを拘束し、そして処刑した。

この夜、日本軍はベトナム各地のフランス軍を一斉に包囲して武装解除した。

 

「明号」作戦と言う

戦争末期、日本軍は戦況不利、ヨーロッパでは枢軸国「フランス国」は崩壊。

ドゴールの新しいパリ政府の出現は、ベトナムフランス軍人を動揺させた。

フランス軍は日本軍より多い。もし、連合軍と呼応されたら危険。今のうちに。

周到な計画。日本軍有史以来初めて完全成功したクーデター。終戦5か月前のこと。

 

終戦後も戦う日本軍

ベトナムの日本軍は武装解除を用意して連合軍の進駐を待った。

ところがなかなか来ない。イギリス軍がやっと来た。

そして、なんと、日本軍に対して驚くべき命令が下った。

武装解除せず。連合軍として作戦に参加しろ。」

 

民族独立勢力ベトミン軍の勢力拡大に手を焼いたからだ。

地上部隊も航空隊もベトナムの日本軍は連合軍進駐部隊より整備され強力だった。

終戦後も日本軍戦闘機隊は英空軍のマークをつけ、部品が消耗するまで飛び続けた。

武装解除し祖国にやっと復員できたのは、終戦の翌年だった。

 

日本軍と戦う日本兵

ある日のベトミン部隊と交戦した日本軍兵士

「今日の戦闘で、ベトミンがわの指揮官に日本人みたいなのがいたようだ。」

「俺も前に見たことがあるぞ。」噂は広がっていった。

約2000名の日本兵が離脱してベトミン軍に合流し、旧植民地軍と闘ったのである。

 

クワンガイ省に士官学校ができた。

教官は日本軍将校 助教下士官。優秀なベトミン将校を育てた。

再度、植民地奪回に来たフランス軍は、ベトナミンが以前と違うことに驚いた。

ディェンビェンフーの陥落。植民地宗主国側が10000人規模で降伏した例はない。

 

ベトナム独立記念日 

ベトナムはどこから独立したのか。日本からの独立だ。

ホーチミンは言った。

「日本がきた。それはフランスの首輪を外したのではなくもう一つ首輪を加えた。」

 

ベトナム人の「親日」を考えなければならない。

親日はどうやってできあがったか。

戦後、平和ニッポンの努力と勤勉と信用の成果によってではないか。

「戦争」ではない。

 

戦争映画はかっこいい。でも、戦争は嘘つきで間抜けだ。

アランドロンは兵士としてベトナムにいたらしい。彼はこの辺はあまり語らなかった。