私が会った人々①子供へ

 

父と出会ったのは、父が衆議院議員に初当選した年です。記憶はありませんが。

昭和22年 記念すべき日に私はこの世に生まれました。

記念して 政治 と名付けてくれました。

父が40歳過ぎての3男(姉が一人)末っ子として育ちました。

 

父との会話は少なかったので母から聞いた話をします。

私が生まれる前、父と母は戦前から青島で人生で一番贅沢な暮らしをしていたらしい。

国策ふ頭会社の役人で、時には海軍のサイドカーの護衛もついたほどの待遇で。

コチコチの保守思想家で、こっそり敵側のラジオ放送を聞いた母が「やっぱり戦争負けるみたい」といったら殴られたらしい。

「陛下のためなら子供の首をさしだしてもいい」といったと母が笑って言いました。

 

ところがある日、肩をおとして帰宅した父が、母に

「わが軍も大したことはない、がっかりした」とポツリといった。

父は退社の途中、公園で大きな人だかりを見つけて、目にしたのは

酔っぱらった日本の将校が刀を振り回して公園のサルを追う。群衆は驚き叫ぶ。

当人はますます面白がってやめない。父は中国人の蔑みのまなざしを見た。

相当ショックだったのだろう。

 

私が子供の時黒いインクを使ったら、なぜか怒られた。

憲兵の襟の色を思い出す、とか言った。

父の勤務先のふ頭会社では大勢の労働者がはたらく。苦力(クーリー)という。

過酷な労働で倒れたものは、川に捨てる。

見かねた父はある日、遺体を集め、僧侶を呼んで弔いを指示した。

父は憲兵隊につかまった。母は毒殺される恐れがあるので、毎日弁当を差し入れた。

ある日戻った弁当箱には、スプーンを曲げて作った、姉へのおもちゃがいれてあった。

これはまだ生まれていなかった私が姉に対して嫉妬する話だ。

 

生家は四国の大庄屋で村の小高いところ、自動車道から登って行ったつきあたりでした。自動車道を渡って反対側に、あるくと、また、突き当る、そこはお寺でした。

父にはこの村と別にもう一つお寺がありましたが、ある配慮でここにしたのです。

この村では、百姓を救済する抵抗うんどうに身を投じて名を遺した義人がいます。

それが原因で、大庄屋はお上から追放され、父の家があとがまにやってきたのです。

父の家は、その義人を尊敬する村人に大変こころを砕くことを忘れない大庄屋でした。

 

農民のため、という思いと清廉潔白な性格は国会議員に押す青年運動を起こさせました。

ネットで過日の国会質問を読むことができますが、保守でありながら、安保条約地位協定で土地を占領されている農民への苦しみを政府が救済すべく要請しています。

演説が得意で、その名演説を聞きたくて対立陣営の運動員も集会にきていたほどでした。

 

正しく筋をとおす性格は多くの支持者を生んだが、乏しい資金は人を離れさせました。

東京の議員宿舎で5歳の時、傍らで聞いた上京してきた支持者たちの言葉をわすれません。

「先生のう、タコォみたいにくにゃぁくにゃしとらんといけんよ」

「せいだくあわせてのまにゃ~」

黙ってへの字に結んだ父の口が印象に残っています。

 

韓国の李承晩大統領が竹島周辺などから一方的に日本の漁船を武力で排除しました。

映画館のニュースで、韓国警備艇とけなげなに渡り合う巡視船の映像が流されました。

父は国会答弁で、吉田総理に「我が国は丸腰国家か再確認する。」と質問しています。

次の選挙で父は選挙カーに日の丸をたて、再軍備を主張して選挙で落選しました。

母は「まだ早い、と言うたのに・・」といいました。

 

以下はネットで見つけた話です。

父が戦後初めての日中友好議員団として中国にいったときのことです。

一行が、戦犯軍人の収容所を訪れた時のことを書いた一軍人の著書の記載です。

独房のそとに偶然懐かしい日本語を耳にした彼は、一行に自分の出身地、姓名を叫んだ。

歩み寄った父は、この偶然の出会いに耳を疑い、お互いに驚き、目を見張った。

その軍人は5.15事件に連なった罪で満州にとばされ、終戦を迎えて虜囚となった。

なんと彼こそ、村の義人の末裔であった。

 

「家族に無事だと伝えてくれますか」と彼は言った。

父は「かならず伝えます。きっと帰国できるようにします」と約束をした。

それから、父は家族を励まし、戦地に今なお残る日本人を祖国に帰す運動に奔走した。

彼は帰国した。

彼はその後、他国に侵攻しないが、いったん侵略されれば、小たりといえども相手が後悔するほど手痛い反撃のできる「ハリネズミ」防衛論を唱えた。

父の再軍備主張に影響を与えたのではないかなと思っていrます。

 

わたしが一番大切に思って忘れない父の言葉は

航空会社に入社した長兄が、夕食のとき、「パイロットが過度にゆうぐうされて不公平」と愚痴をいいました。

父は、「何を言うか!分相応だ。人の命をあづかるものと、お前とは違う」といった。

そのとき私は「でも、踏切番のおじさんがそれほど特に優遇されているとは思わない」。

父は怖い。反論に容赦しない。でも、父は言った。

「それはそうだ そのとおりだな」。この一言はいい言葉だ。

私が長じて、大学紛争に連日ヘルメット姿で出かけ始めたころ、亡くなりました。

私のデモ参加には非難の一言もいいませんでした。

 

父は最後の病床に子供を集めて、「決して後を継ぐな」と遺言しました。

生家の村の寺のパンフレットに、村の偉人として義人と父の名前が併記されています。

 

真夏に、麻の背広を着て、帽子をかぶり、傘をもって、胸を張って、かかとの音を響かせて東京駅のホームをこちらに歩いてくる、ワンショットの映像のような記憶があります。

 

                                      以上