終戦記念日とぼくの恋した「東京湾の女王」

ダナンヨットクラブができました。ウエブサイトをみてください。

南シナ海の美しい海がすきです。ヨットが好きです。だから船の話をしましょう。

 

小学1年。父の数少ない家族サービスで千葉の館山に海水浴に行ったことを思い出す。

歩けないほど暑い砂浜と、ゴムの匂いのする大きな黒いタイヤチューブの浮き輪。

よしず張りの海の家。ほんとうに塩の味がして驚いた海の水。

なにかで拗ねて機嫌の悪い僕の肩を抱いて、水着姿の姉が笑っている写真。

客船「橘丸」のへさきで身を乗り出し船首が切り裂く波を飽きずに見下ろしていた。

振りあおぐと、そびえる流線型の白い船橋のスタイルはとっても美人に見えた。

買ってもらった絵葉書を今も大事に持っている。

 

私は乗り物がすきです。

乗り物の中で、自動車と、船は特に好き。

この二つは長い歴史の中で構造がほとんど進化していない。

車のハンドルは輪のかたち。エンジンはピストンが往復するレシプロのまま。

船は何千年もおなじかっこう。

でも、船にはその船の一生の物語の魅力が加わる。

もうすぐ終戦記念日だから、戦争で数奇な運命を過ごした船の物語をしよう。

私の少年時代のすばらしい夏の記憶、「橘丸」の話です。

 

まず、序盤で

20世紀最大の海難事故と言えば、人々は1513名の犠牲を出した「タイタニック号の遭難」を言うだろう。

ところがこれは正しくない。

「阿波丸事件」をご存じだろうか。

いったい、戦争の惨禍は忘れたほうがいいのか忘れないほうがいいのか。

緑十字船阿波丸はアメリカ軍の国際法規を無視した攻撃で南シナ海に沈んだ。

史上最多の2000名以上の犠牲者とともに

浮上した潜水艦は暗黒の波間に漂うおびただしい婦女子や民間人の悲鳴の中を進んだ。

救助もせず見殺しにした。

潜水艦にとって不幸だったのは、一人だけサンプルで拾い上げた日本人が外国航路経験の英語が堪能な船員だったことだ。捕虜として艦内につながれた。彼が戦後証言した。

緑十字を船腹に描いて、煌々とライトアップされた本船は、国際法で安全を保証されていた。民間人の交換や捕虜への薬品など補給物資を運ぶ戦時交換船だ。

日本政府は抗議した。マッカーサーは抗議を受け付けなかった。それでも抗議して困ったアメリカ本国政府が賠償した珍しい例だ。道成寺の境内に悲劇の記念碑がある。

 

本題 病院船「橘丸」

横浜に有名な氷川丸が係留されている。太平洋航路の女王、日本郵船の豪華客船だ。

数ある病院船の中の病院船、国際法規を遵守して清く正しく勇敢な船歴を誇る。

 

戦争中アメリカ軍は違法にも多くの病院船を攻撃した。

例:「ぶえのすあいれす」丸を、目に鮮やかな赤十字マークも無視して撃沈した。

波間に浮かぶ遭難者を機銃掃射で殺した。日本はスイス経由で世界に非道を訴えた。

陸軍の病院船だけでも17隻のうち生き残ったのは1隻。

 

ここで登場するのは真っ白な船体に大きく鮮やかな赤十字を描いた「橘丸」である。

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1935年に「橘丸」は、流線型のデザインをとりいれた「東京湾の女王」とよばれて華々しくデビューした。ブームになりかけた大島航路の東海汽船の花形客船であった。

なんと1938年海軍に徴用されて軍用船になり、運悪く爆撃により沈没してしまう。

ところがその後修理されて再び徴用され軍務で遠くインド洋まで走り回ることになる。

最後は病院船になり、赤十字と白いスマートな船体で戦闘海域を疾駆したのである。

戦争が終わると、また花形客船として三宅島や八丈島の航路に再デビューした。

ときどき納涼船として海水浴客を千葉に運んだらしい。そのときが私の出会いである。

 

だが、なんと彼女は、その間、驚くようなダーティな事件に加担していたのである。

戦争末期フイリッピン海で、病院船橘丸は約1500名の傷病兵を載せていた。

ところがこれは偽の傷病兵で、兵器とともに別の戦場へ移送中だったのです。

兵士に傷病兵の白い着物を着せて、偽の名前や、病名を暗記させて、米軍の臨検をのがれようとたくらんだ。

怪しんだ2隻のアメリカの駆逐艦が、両脇を挟むかっこうで停船させ臨検を受ける。

看護婦が一人もいないのはおかしい。尋問で病状をまともにこたえられない。

そのうち偽装した荷物の中から大量の武器弾薬が発見される。

国際法違反だ。

橘丸は拿捕されて、日本軍有史以来最多の将校もろとも1500名以上の捕虜となる。

全員処刑も覚悟する絶体絶命の緊張の中で反乱しようかという部下を制止した将校。

日本軍はあわてて、味方の爆撃機で兵士もろとも撃沈しようかとパニックになる。

この恥辱事件の責任をとって、複数の上官が自決したりしたが、どうしようもない。

 

戦争が終わり、健康な約1500名の将兵は一人残らず無事に帰国した。

橘丸も解放されて戻り、病院船の姿のまま、外地からの復員船を務めた。

彼女はその後三宅島大噴火のとき自衛艦とともに島民の救出に活躍し名を残す。

続く戦後のレジャーブームの波に乗り東海汽船の主力として本望を遂げた。

 

私が恋した「東京湾の女王」は恥ずかしい過去にも知らんぷりして、合計800万人も運んだ生涯をかっこよく終えて、私が社会人3年目の1973年スクラップになった。

味方に撃沈されかかった数奇な運命の病院船。

彼女の不始末でおそらく玉砕する運命の約1500人もの命が助かったのも事実です。

 

 その昔、ダナンの沖合を祖国に急ぐ白い船体が見えたかもしれない。

 6歳の私を怯えさせた、腹に響く彼女の汽笛の咆哮を今も忘れません。

「平和がいちばんよ」と言っていたのかもしれません。