ベトナムで読書

その牧師は若い時から人望も能力もあり、出世を約束されたような人物でした。しかし、彼はフランス革命が終焉し、旧体制が復古した社会になにか疑問を感じていました。彼は教区をみまわっているあるとき人里はなれたところで孤独な老人が死にかけていることを知りました。「変人だ。会わないほうがいい」という住民の反対を押し切って会いに行きます。一人の少年が身の回りの世話をしていますが、牧師との会話中に死んでいきます。彼は、革命の闘志だったのです。牧師は彼に悔い改めて神のもとに安らかにいきなさいと、心を込めて説教します。その老人は牧師の説教を笑い飛ばします。牧師はギロチンでなどの恐怖政治で人を粛正した罪を悔いるべきだと説教します。老人は言い返します。では、長い間宗教裁判で罪のない女や子供を殺戮してきた罪をあんたは悔いないのか。自分は悔いてない。たしかに私も残酷なことをした。でも新しい人間らしい世界を迎えるための必要な損害にすぎない。そして老人は死に際に、たそがれの一番星を指さして、「牧師さん、こんなところまできてくれてありがとう。私に神はいらない。私には理想というものがある。あの星が私の理想のしるしだ。」と、言い残す。牧師はショックを受ける。やがて牧師は深く考えて、自ら希望して、田舎の地位の低い牧師になる。そこに現れたのがジャンバルジャンだ。
村瀬政治
レミゼラブルの一番すきな部分だ。牧師のたどってきた人生、国家と法の正義というものに人生をささげたジャベール警部。パリ市中でバリケードを死守して戦うコゼットの恋人。リーダーらしくしんでいく学生運動家。最初は声援していたのに鎮圧されると背を向ける市民根性。ビクトルユゴーは、もともと保守の政治家・法律家だったけど、次第に変化していく自分を小説に表している。登場人物はそれぞれビクトルユゴーの人生の姿で、それらをつなぐ道具として、異様なジャンバルジャンという人物を登場させた。
村瀬政治
日本の少年少女文学の問題点は、子供向けに省略、または、変更してしまう点だ。たとえばコゼットの母が下級の売春婦に堕ちて、それがどんな暮らしか克明に描かれてある部分は伝わらない。母のみじめなむごい状態に、今や身分も富も得たジャンバルジャンが偶然出会う場面など、重要なエキスなのに。撲滅された革命運動のあと、一見秩序を取り戻した社会を、救われない庶民の生活から懐疑の視点で見つめようとする。
 
ビクトルユゴーの作品は、日本ではほんとうに少なく売られている。でも私は好きだ。いつ読んでも自分の心と思想のへんぺんの旅を思い出せるからです。彼は年を重ねながら、保守から革新へ変わっていく。どんな体制をも、人間主義で見つめようとする努力がある。